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なんか書いとこうか

 投稿者:かみた  投稿日:2015年10月17日(土)21時12分55秒
返信・引用
   台風を抱く夢を見た。

 耳の覚め 手足は眠り 言葉なく
夢の絵求める 二度寝の長さ
 
 

署名した

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 9月22日(火)03時13分1秒
返信・引用
  http://www.tufs.ac.jp/blog/ts/p/virtualloungeCN/2015/09/post_331.html

「安保関連法案の採決不存在の確認と法案審議の再開を求める申し入れ」への賛同のお願い
 

戦争法案反対デモ2

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 8月30日(日)21時24分4秒
返信・引用
  http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2015083001001340.html
東京新聞の第一報を読んでたら、「警視庁は参加者数を発表していないが、関係者は3万人余りとしている」と。節穴か。
私は昔通っていたころのコミケよりどのくらい混んでるかで、大体の参加者数を計っているのだけど、12万人は確実に行ってると思うぜ。
 

戦争法案反対デモ

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 8月30日(日)20時03分12秒
返信・引用
   主催者発表で12万人集まった。天候に恵まれなかったのにすごい数字だ。とにかくすごい人で、3時からのコールには間に合った。集会の民主主義に参加できてよかった。今回は議事堂を一周してみたのだが、ほんとにすごい人数集まった。大事なことだから二回言いました。小学生の姿も目についたのが印象的かな。
 福島3号核爆発というDVD が100円で売られてたから買ってきた。計20時間以上あるらしい。口上が上手いのか、飛ぶように売れていましたよ。
 帰り際、赤旗が号外を出していた。早い。
 

二号機原子炉の話ですが

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 8月28日(金)10時14分41秒
返信・引用
  「名古屋大学が(株)東芝と共同で、福島第一原子力発電所2号機原子炉内部の宇宙線ミュー粒子による透視に成功」pdf
リンクしたい先のアドレスが長すぎるせいかうまくコピーできない。「ミューオン 福島第一」で検索したら出ました。
https://www.google.com/search?ie=UTF-8&client=tablet-android-kddi-jp&source=android-browser&q=%E3%83%9F%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%82%AA%E3%83%B3+%E7%A6%8F%E5%B3%B6%E7%AC%AC%E4%B8%80&gfe_rd=cr&ei=DZDAVdKOM_H98weWo5SQAQ&norc=1

もしご存知でなければぜひ覗いてみてください。なくなってるのが目でみてわかりますから。今の科学はすごいなと思いました。

  最近放置気味でしたので、長文も歓迎いたします。
 

3号機プール内燃料飛散済,隠し続ける為に瓦礫撤去わざと遅らせる手口やめろ。進捗は,目視できてる本数で表せ。進捗,誤魔化す

 投稿者:命を大切に思う者  投稿日:2015年 8月26日(水)22時02分11秒
返信・引用
  http://fukushimadisasternote.1apps.com/tepco_schedule.gif

詳細(ソースの在りかの情報含む) → http://fukushimadisasternote.1apps.com/

放射線量に現れない毒の粉である、福島原発3号機プール内の燃料の、
何割かがすでに大気中に飛散してしまっていて毎日それを吸わされ、
近い将来死ぬ,身体にされる人が増え続けている心配をした方がいいです。

飛散済か否か白黒付けるには、3号機プール内を覆い隠している瓦礫を撤去し、
プール内の燃料のあった場所を目視できるようにする以外に方法がない。
ところが、東電と政府は、それをさせないように妨害し続けています。

上図の、3号機プール内の瓦礫撤去作業の予定表の変遷を見てください。
この1年半、その撤去の開始予定日が近づく度に予定日を後にずらすだけ、
ずらすのを何度も何度も繰り返して来ただけです。
こんな手口をこれ以上許しては駄目。今度こそ、何が何でも瓦礫撤去させるのです。
飛散済だった場合、白黒付くのが遅れたら遅れた分だけ犠牲者が増えます。




肺癌が今急増してないことや、測定で発見されていないことは、
飛散してない証拠にはなりません(理由は後述)。
何割か飛散済か,全部残ってるか,白黒付けるには、
プール内の燃料のあった場所を目視できるようにする以外に方法はないのです。
上図の、予定表の変遷をもう一度,見てください。
この1年半、日が過ぎ去って行く速さと同じ速さで、
予定表の内容を、機械的に、後ろに平行移動して来ただけです。
進捗報告では抽象的に「撤去作業中」とだけ言って予定変更には触れない。
「1年半ずっと撤去作業してた」と言う割には、
撤去した下の状態(燃料が残ってるか消えてるか)を写した写真を見せてくれない。
撤去作業をわざと遅らせ続けるとしか思えません。

8月2日にFHMだけやっと撤去したようですが、
これはやろうと思えば1年半前にできたことをわざと引き延ばし続け、
「わざと遅らせ続けてる」とバレそうになったために、渋々、やったことです。
1kmも離れていない国道6号線を通行止にせずに実施したのがその証拠。
通行止の必要もない作業なら1年半前にできた筈。1年半もの間,何してた?
FHMが撤去されても、まだプール全体が瓦礫で覆い隠されたままで、
FHM以外の、その他の瓦礫の撤去の方が本丸です。

FHM撤去が完了したことで油断していると、
この1年半やって来た「予定の平行移動」を延々続けられて、
この本丸をいつまで経ってもやらない、
3号機プール内の燃料のあった場所もいつまで経っても目視できないまま、
近い将来死ぬ身体にされる人が増え続けているか否かも白黒付かないまま、
それをされる危険性があります。
●そんなこと許しては駄目。今度こそ、何が何でも瓦礫撤去させるのです。

そういえば、4本の取っ手が変形の発表で、写真が公開されましたが、
公開されたのは4本周辺の写真だけです。
残り562本の写真は公開されてない。
残り562本については、残ってるか飛散済かわからないままなんです。
変形してないものも含め、
現時点で目視できたものは、全部で何本なのか、公表させないといけない。
566本のどれが目視できてどれができてないか全体像がわかる画像を公開させないといけない。

ところで、肺癌が今急増してないことが証拠にならない理由は、
癌の塊がある程度の大きさになるまで症状が出ないし気づかないからです。
アスベスト被害でも発覚したのは何十年も経ってからです。

また、測定で発見されていないことが証拠にならない理由は、
プール内の燃料はアルファ線を出すものが大半で
(ガンマ線を出すもの等もゼロではないけど少ない。理由は別記)、
アルファ線は数cmしか飛ばないため、
測定器を数cm以内に近づけないと反応してくれないからです。
しかも、堆積の仕方がとびとび。
溜まってるところに近づけない限り、反応してくれない。
そこに近づければいいじゃないかと思うかもしれないけど、
目に見えないためにそこがどこなのかわからないからこそ、
あるのか無いのかわからないからこそ測定器で捜しているのです。

■状況証拠(鉄骨,数十トンが1000℃を超えた)は、
水素爆発では説明の付かない、それとは桁外れの熱の発生も
あったことを示しています。

水素爆発で出来た高温ガスの質量は精々,1トン。
1000℃まで上げられた鉄骨の質量は数十トン。
質量差が数十倍あるのだから、
高温ガスの熱が、2000℃分、鉄骨に移ったとしても、
鉄骨は50~60℃くらいしか上がらない、数十トンもあるのだから。

鉄骨,数十トンが、水素爆発の熱だけで1000℃になったと言い張るのは、
浴槽一杯に入ってる水が、
100℃の湯,コップ1杯入れられただけで50℃になった
と言い張るのと同じです。
コップ1杯の熱で50℃になるわけがない。考えるまでもない。肌で感じる。
1トンの熱で数十トンが1000℃になるわけがないことも同じ。肌で感じる。

ガス全体の熱が鉄骨の一部に集まったと言い張るかもしれないけど、
集まるとは言っても、
熱が鉄骨に移ってガスの温度が下がる度に、周りのガスから熱が補充される
という感じで集まるだけで
そういう感じで集まる速さの方が、
鉄骨内で熱伝導で逃げて行く速さより速いわけないだろう
(出来上がった高温ガス内での熱の補充速度のことで爆風の速さとは関係ない。理由は別記)。

燃料プールには、
原子炉に入ってるものと同じものが入っている(純度が下がってるだけ)のだから、
原子炉内の物が連鎖反応を起こす(そうでないと発電できない)のなら、
プール内の物も連鎖反応を起こしてもおかしくない、密集状態になれば。
ラックで、密集状態にならないようにしてるだけ。ラックが壊れたらおしまい。
連鎖反応が起きたら、制御棒が無いのだから、連鎖が速くなり過ぎて超高温になります
(水素爆発直後に起きたのは、強烈な熱の発生と水の気化。爆発とは言ってない。
水の気化で出来た数十万℃の水蒸気が鉄骨を1000℃にした。詳細は別記)。

■ 理由と詳細
http://fukushimadisasternote.1apps.com/reason_and_detail.html

http://fukushimadisasternote.1apps.com/

 

(無題)

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 8月19日(水)22時08分11秒
返信・引用
    NHKのカズオ・イシグロ「文学白熱教室完全版」を見た。もとのは55分番組だったのが、こちらでは学生さんたちとの優れた応答を収録し、+20分のたしかにこれは完全版。
私としては「物語の筋は移せる」という話が考えさせられた。書くうえでどういう舞台設定をとるのか非常に悩むという議論につながっていくのだが、人間はどうして小説のようなものが読めるのかを説明するものだと思った。
 

日本ヤバい

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 7月31日(金)22時26分38秒
返信・引用
   法的安定性というものがなければ国家ってなんなの?誰が何するの?日本ってなんなの?憲法以外に法的にどう規定しうるの?憲法解釈する総理大臣が「私が国家だ」というわけ?国家ってあんたなの?天皇と総理の関係はこの場合どうなるの?日本の象徴である平成天皇にどう説明しているの?

 カズオ・イシグロの「忘れられた巨人」を読んだ。
 

池のつく百

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 7月23日(木)22時05分34秒
返信・引用
  http://www.bengo4.com/other/1146/1307/n_3318/

 弁護士ドットコムにのっていた「安保法制「合憲」論者・百地教授「もう侵略戦争しないのか」と外国記者に問われ激怒」は、フランス人記者とのやりとりの空回りぶりをそのまんまのっけられてしまっており(ニュースと言いつつ弁護士ドットコムさんはこういうえげつないこともしっかりする)、笑ったが、自分の笑いが冷笑なのか苦笑なのかよくわからなかった。失笑も混じっていたかもしれない。とにかく教授がこのやりとりでなにを言いたいのかさっぱりわからなかった。
 論点を整理したいのだが、ぐっちゃぐちゃで難しい。一晩かけて考えたが、同じく弁護士ドットコムにある小林よしのり氏のインタヴューが100倍まともだと思うばかりで、この池のつく百は何を言いたいのか、何を言っているつもりなのかさっぱりわからない。教授は記者の質問に何か答えているつもりではないのだと思われる。議論の場であるはずなのに、説得したいのかケンカを売りたいのか、どちらなのかすらわからない。
 日本の戦争経験とフランスの奴隷制(古代以来の奴隷制一般や、フランスの身分制、植民地主義のことならわかるが、どういったことを指しているのかわからない)なるものをどう比べられるつもりで話しているのか理解できない。この二つを思いつきのように並べてどこを比較できるのか考えがあるようにとてもおもえない。とにかくわけがわからない。 スポンジと鉄は両方とも固いでしょう、といったたぐいの比喩では鉄にもスポンジにも固さというものがあるということがわかるだけで、 説得のための比較というのは、比べるところがはっきりしていないと、シュールレアリズムになってしまう。それでは人間同士の会話さえ成立しない。ほかにも、事実レベルで何を指して話しているのかわからないし、理屈レベルでは小林よしのり氏のほうがよほどしっかりしており、驚いた。
 何度でも言うが、とにかくわけがわからない。理解してあげたくてもひょろーんとしてしまう。比較の近くに確かにすりかえというレトリックもあるにはある。氏のしている話ではいろいろちょこちょこ表現が変わっていくようだが、すりかえている自覚があるのかさえよくわからない。スポンジと鉄の区別がついてないように思われる。話が別のことに展開しているのか、飛躍しているのか、ご自分で承のつもりなのか転のつもりなのか、わからない。これがはっきりわからないと、話についてはいけない。ほやーんと何か喋っているのはわかるが、論としてだれにも理解できない。
 繰り返し言うが、こんなすさまじいレーデは初めてだ。なんなのかどうしても理解できない。喋っているのかしりとりをしているのかがわからない。シニフィアンとシニフィエがもーなにーもーかもーぐーちゃーどろーずんべろずんべろずんべろりん--とにかくわけがわからない。

 私はモグリの哲学者だから、まず言語論的分析に傾いてしまったが、なかでもとくに修辞論しかまずはできなかった。法や学術と言語の関わりなど重要な問題もあるのだが、それ以前の問題なのだろう。教授の言いたいことは泥の梯子のようというか、昇りたいのか降りたいのか、なんかもがいていれば満足なのか、わかりようがないように感じる。谷のつくボスから私が掠め取った世界史論的観点からすると、教授の握っているものが梯子なのか竹馬なのか怪しい。
 この教授の言葉がどうこの世の中のなかに存在し、あまつさえ権威らしきものをはおえているのかわけがわからない。
 わけがわからないとしか言いようがない。こっちは話にしたいのだが、向こうが話にならない。哲学的に言うと批判以前の問題である。批判すらできないほどひどいのである。

 なんらかの形で続く。
 

政治的問題について、あるいは経済学の問題

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 6月28日(日)22時27分45秒
返信・引用
    「自然でない自然現象を含む自然概念――シェリングを読んで」の続き。

 政治的なんやかんやにとって、「自然にうまくいく」という観念をまともに整理できる政治学者はいない。政治学や社会学の基礎となっている自然状態論からして、政治というものは、哲学的に考えていけば人びとは「自然」にはうまくやりきれないということを前提している。ホッブズはもちろん、ルソーもそうであり、ポリスとは人間が「より善く生きていく」ために必要なのだというギリシア的な哲学観からしても、そもそも政治は「自然」現象ではないものとして捉えられてきている。
 しかし、政治を学問として扱おうとすると、これをあたかも自然現象を扱う自然科学と似たようなものに仕上げたいというできもしない欲求が出てくる。今日政治学という「科学」には、科学技術が観察を踏み越えても自然現象をかなり十分に扱いえているようにおもわれるのと同程度の、「政治現象」の操作が社会的な役割として求められてしまっている(「ぼくのかんがえたいいくに」)。政治学者が自らの学問的見識から社会の動きに関わっていこうとするのはよいのだが、それはあくまで自然科学と混同している政治「学」にできる仕事ではなく、まさに「政治」にしかコミットしていくことができない問題なのである。
 政治学という学問が成り立つためには、政治という概念をしっかり定式化せねばならないのだが、「学」であろうとする欲求が政治概念と自然概念をないまぜにしてしまっており、それが政治「学」の政治性をも混乱させているように感じる。
 筆者にもまだ理論的に整理しきれないがあえて言えば、政治に「法則」を探る政治「学」は政治現象と自然現象を端的に同一視しており、それは哲学的にみておそらく不可能な立場である。自然じゃないのを含めうまく考え、論じ、行動していかなければそもそも政治現象というものは存立しえない(アーレントを参照)。だからもし政治を学問的に扱うことができるとして、さらにもしそこに「法則」になぞらえられるものが見いだされるとしても、そうした政治学の場合、政治「法則」は自然「法則」とはずいぶん異なったものとして扱われなければならないに決まっている。それにはやはり自然現象を法則化する人間にとって政治学の役割とはなにかという点で、自然概念がふたたび問われてくるし、自然学とそれ以外の学知のありかたが截然と別けられてしまえば(新カント派が理論化した歴史学)、学問というものにそもそもなにができるのかという点で自然哲学的な反省が必要となってくる。
 政治現象の場合、やはり「法律」というものがまずあり、西洋の学問にとって「法則」と「法律」は混同されやすい。そもそも自然学のほうが「法」という言葉を持ちだしてきたのではあるが、そのときすでに法概念は自然科学的法則概念へと変わっており、この変化に無頓着な政治学的「法」概念はまともな学術的議論に耐えられない(ここでは今日の政治学がもたらす混乱について論じているが、実際の法律にあたるほとんどの法学者の議論にもついていけないのではいか)。法律ではこうなっているとからこう事が運ぶというたぐいの「政治」的議論はすべからく、「法律」概念を現代的な自然法則概念と混同している。政治を学術的に捉えたいのならば「法律」概念が自然学的な法則概念とは異なるということを踏まえなければ議論にならない。そのため、政治学が成り立つためには法律の適切な概念化が必要であり、古典古代や中世ローマ法には優れた先達が幾人もいる(筆者はギリシア悲劇や弁論学者の遺したものをいくらか読んできた。「法と道徳」)。
 自然概念が曖昧になるにつれ、どうして法律の決めたとおりにものごとが進まないのかという議論には、法律どおりになるはずもない政治的現象を学術的な政治現象として捉えることができなくなっていく。こうした現象は(あくまで)だめな政治学にとって障害として捉えられる。このような政治学のいう「障害」は害ではまだないのだが、こうした政治学こそが「政治学」でなければならず、こうした政治学のとる政治観こそが「政治」であるとなると、そうした「障害」はあたかも社会的病理であるかのように、こうした政治学が行き届けば解決できるはずの問題として捉えられていく。
 政治的害というものがあるとしてそれはいったい何なのか。これを問うには、政治にとって問題(害)とはなにかを問わねばならないのだが、こうした政治学はこのような問いかけにたいする感性に欠けており、法律に沿っていればすべてよいとみなす。しかし、法体系は世のありかた次第でいくらでも変わる善悪の倫理体系を完全に網羅したものではありえないから、法律に問われない政治的害というものがあるのは当然であるし、法律には則っている政治的害というものがあるということも当然である。

 さらには、法には則っているが法律には問われない政治的害というものすらあるのだが、こうした政治的問題を正確に捉えるには政治概念、法概念、科学概念を哲学的に把握していないような「政治学」はどうしようもない。だが、人びとは生きていく以上そうした害のなかで政治的に生きていかなければならない。そのため、人間というものが政治的動物として生きていくためにこうした「政治学」は現に使われてはいるようだが、現に生きている人間にとっての政治の役に立つわけがない。さらに言えば、かえってこうした「政治学」こそが政治的に生きている人びとにとって害となりうるということを、政治も法も科学も捉え損ねた「政治学」には捉えられるはずもない。
 そもそも「政治現象」というものをたんに自然科学になぞらえたしかたで「学術的」にあつかうべきものだとすると、政治的問題というものが見失われる。それは端的に政治とは何かと捉え損ねているからであり、その混乱のもとには自然科学的自然観の世界的支配がある。このような混乱を解いていくためにも自然哲学という学問は必要とされてくるし、「政治学」というものがあるということがもたらす政治的害を理解するためには、どうしたって生きている人間にとっての科学を概念化していく哲学的考察がなければならない。その哲学は、人間を生きているものとして扱う以上は人間が生きている自然をも扱わざるをえないし、自然を捨象した人間の政治を扱う学問というものは、人間も政治も語り損ねる科学もどきとなるだろう。当然、公害など論ずる資格はない。
 そのため、政治なるものを論ずるしてもそれが人間にとって意味を持つためには哲学的な自然観をふまえておかなければ、どうしようもない「政治」論議となってしまう。ただし、こうした課題に応えうる哲学者の論述は、探さなければ見つからない。探すためにも哲学的訓練は不可欠であるし、これをなしに政治が学術的に論じられるとなると、人びとの政治的生は行き詰まってしまうだろう。

------------------
 以上の論考は、「政治」という言葉を「経済」にあてはめても通用するようにおもわれる。経済学という学問には、本来の政治性を失いつつ自然学に近づく傾向があるし、そういうものとして扱われてきた。にもかかわらずこの学問は資本主義社会においては、それがそれである以上まさしく政治的に機能するし、共産主義であろうと自由主義であろうとどんな立場をとろうともこのことを逃れられない。
 政治学という学問が政治を扱うと称しているのにくらべ、経済学はたしかに一義的には政治を扱うものではないといっている。しかし現実をみれば今日では政治学よりはるかに経済学のほうが政治的に機能しているし、そうであるのに自らの政治性を踏まえていない経済学には政治的問題がある(マルクスを筆頭にすぐれた例外も多いのだが、冷戦終結とともに経済学のなかでの友敵概念――シュミット『政治的なるものの概念』拙訳――が曖昧になってしまった)。
 こうした問題を「政治的」問題として捉えるにはどうやら、自分たちが扱っているのが経済現象、経済問題である――今日経済問題はイコール政治問題として現れるのだが――はずの経済学にも、自分たちがなにをしているのかよく分からなくなってしまっている――政治を学問の対象にするということにたいする哲学的反省が本来必要なのだが、筆者は寡聞にして現在こうした問題を扱っている政治学者を知らない(筆者はむしろ、法制史家ルジャンドルや、政治的問題に行きつくことになったアガンベンのような哲学者を先達として考えることができている)――政治学にも困難なようにみえる。だから例外的な政治学者がいるのなら教えてもらいたい。
(サンデルの講義はテレビでいくらか観たことがあるが、あの場はサンデルが狂言回し――物を教える者というよりも――として中心にいることもあり、政治的な場とはなにか学べるように感じられなかった。せいぜい政治的問題というものがありうるということを提起しているのがあの講義の持ちうる意義であろう。しかしその学術的な扱いとして、かつての政治哲学者の説を引きだしてくるに留まるようでは、問題の政治性を見失いつつある。ここに政治の問題がまさしく政治の問題として扱いきれているように筆者はどうもおもえなかった。)

-----------------------
 シェリングの自由論も『人間的自由の本質』くらいは読んだが、それと自然哲学との結びつきがどうなっているのかはまだうまく整理がついていない。
 さまざまな哲学的「ジャンル」に手を出したかのようにみられるシェリングではあるが、哲学にとっての中心問題が人間であることさえはっきりわかっていれば、彼の生涯の哲学を一貫したものとしてみることができるはずだろう。

 公害論について語りきれる自信はない。
 

ちょっとディスるよ

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 6月27日(土)00時42分9秒
返信・引用 編集済
   作家という職業がよくわからない。
 作家というものは、ものを書く人間のことであるが、ものを書けない人間は今日非常に少ない。では、人びとのなかでだれを作家と呼ぶことができ、だれをそうできないのかはなぜなのか。書くことに余人よりも優れた人が作家なのであろう。よいものを書くためには、どうしたってなにを書くかの観察力や、どう書くかの表現力が必要だし、これらがほんとうにととのっているのならば、書いたものがどう伝わるのかにも敏感になるのだろう。大江先生はたしかに作家である。
 しかし百田というのはよくわからない。なぜ彼が作家として扱われるのか。その答え方としてなんとか理解できるものは、彼が書くことによって食べている人であるようだからである。だがそれにしても書くことで食べられているようなのに自分の言葉がどう捉えられるのかわからないのはなぜであろうか。やはり、作家に必要な観察力や表現力が足りていないのではないかと感じられる。
 筆者は百田にはとても興味が持てないので、なにも読んだことがないし、これからも本を手に取ることはないとおもうが、ニュースに出てくる立場を引き受けたということは、もはやおおやけの場で「作家を名乗っている者」として評価されることになるのはしようがない。
 それも書くことの専門家であるべき作家なるものが、書くということを考えてきていない発言がニュースになるのだから、このひとどうして作家になれなのかな、と素朴な疑問を感じる。また、どうしてこの人が今の政権によって「作家」として利用されることができるのかまったくわからない。
 どうして政権がこの人を利用しようと思いついたのかならば、その理屈は思いつく。宣伝員として多少なりとも名の通ったひとを雇ったつもりなのだろう。名が通っていれば実力もあると推察したのだろう。しかし彼は言うまでもなく政治家ではなかったし、政治家的な言語感覚も(作家なら身につけていてほしいものだが)なかったようである。
 新聞社がなくなればいいのになぁ、という言葉は、同じく言葉を扱っている新聞人を馬鹿にしている。この発言は、言葉がなくなればいいという意味をも持っているのだが、「作家」たる人物がこうしたことを口にする者だろうか。これは作家だろうか。
 こういうのを「作家」として政府が扱うものだから、私には作家とはなんなのかわからなくなってしまう。

http://fushinohito.asablo.jp/blog/2015/06/25/7679874
http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-244851-storytopic-1.html
 

 自然でない自然現象を含む自然概念――シェリングを読んで

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 6月23日(火)21時55分10秒
返信・引用
   災害とはなにか
 病気とはなにか
 政治的障害とはなにか
 公害とはなにか

――これらの適正な概念化の課題はただの自然科学はもとより、政治学、社会学などにも原則的にいってできない。またシェリングの口ぶりでは、病気とはなにかという問いに応えられるのも、原則的には医学ではないようであるし、その通りではないかと考える。
 これらの課題には、自然哲学的な世界へのアプローチがどうしたって要る。と、いうのもこれらはすべて、自然が支配している世界に起こるものでありながら、なにか「不自然なもの」、自然にはものごとがうまくいかないときに起こる(かの)ように概念化される現象を指しているからである。
 大雨や地震、津波、火山の噴火、隕石の落下といった災害は、自然に起こるものでありながら、まさに「災害」として現象する。もちろん機械論的な自然科学はこれらの諸現象を自然現象としてとりあつかうことができるが、しかし「災害」としては取り扱うことができない。「災害」とはどういうものかということ自体が、害(悪、よくない)とはどういうことかの理解の仕方によって幅も深さも射程も大きく異なってきてしまう。そして、害とはなにかを扱うのは哲学であり、自然科学にはけしてできないし、してはいけない(科学者にそれができないというのではなく、科学的な考えかたにとどまってしまうと絶対に行き詰まる)。
 老化は「害」として現れるが、これは病気ではなくてあくまで自然なことである。老化現象をあたかも病気であるかのように治すべきものとして突き進んでいくと、医学は間違える。不死を求める医学的神話はそもそも不可能なことをやろうとしているし、老化現象のある生命の自然さを破壊する。この破壊の強度はどうにも見通しにくいようであるが、医学から死の概念がもしもなくなる日が来れば、生の概念も根本的に破壊されるに決まっている。そのときまだベッドの上で「生きているもの」は、我々が現在理解している「生き物」とは、概念的にまったく異なったものになっているだろう。それはもはや「生き物」ではなくなっている。
 機械的に生命を維持している個体はもはや個体としては「生きているもの」ではなくなっている。脳死概念の混乱――はたして脳死は病気なのか、病の一種のように扱うべきなのか、脳死者をもう「生きていけないもの」として扱ってよいのかで医学はずいぶん混乱したし、いまでも解決できていない。それは生命が医学的にきちんと概念化されていないからである。脳「死」者の臓器はまだ「生きて」いると言われる。ここに生死は語られているようでいて、存在できていない。
 こうした問題は、やはりただの医学だけでは荷が重い。脳死者を死者として扱い、彼/女から臓器を取り上げてもよいとする立場にとってしても、臓器を受け取る個体を最終目的としている。それが医学である。これに対して脳死という現象は医学の発展とともに個体としては生きていけないものを生かしておき、それを「殺してはいけない」という立場もやはり、いつかよみがえるかもしれない脳「死者」という個体を目的とした医学的な立場である。であるから、医学は生命を個体のものとして扱わざるをえないのだが、ドナーとレシピエントの生命を交換可能なものとして捉える技術的思考がまさっていくと、命とは誰かのものであるというごくごく基本的なことが見失われ、ヘンなことを言いだす(ドナーカードの意識、脳死の子供)。
 個体の生命を重要視するのならば、臓器は欲しいが、あげたくない。たとえ意識のない脳死状態でもそうであろう。医学的にもそうであるにきまっているのだから、脳死という概念は歴史的にすでに成立してしまった現象ではあるものの、出発点がおかしいし、臓器をとっていいかいけないかでもめるのは当たり前も当たり前のことである。こういう議論が成り立つのは、生命を(臓器を媒介として)個体のものではないと捉えているからにほかならないのだが、生命概念が明確になっていないとわけがわからなくなる。脳死が問題としては医学的問題でも家族の問題でもなく社会問題となるのは、生命という医学の根本概念が混乱しているからであり、これに答えることができるのは医学ではないし、家族同士の話し合いのようなものでもない(なんらかの慰めにはなるだろうが、それは慰めであって問題の解答ではない)。これに応えるためには生命とはなにか、医学とはそもそもなにを目指す学問であるのかを含めて論じなければならない。それをするためには、自然科学ではなく、自然哲学の自然観がどうしたって必要になってくる。

 災害とは、病気という現象と同じように解決できるものならしたい問題として現れる。完全な予知は不可能に決まりきっているが、災害の予知という科学的アプローチは、自然現象を全て捉えきれるという発想によっている。予知というのは、それができれば事前に害を回避できるはずだからやりたいものである。とはいえ、過去と現在のことが全部ちゃんとわかるのでなければ、未来の予知はできないというのがごくごく普通の自然科学の考え方の前提である。
 災害という概念はもとより、人の手では解決しがたい自然現象がもたらす災厄を意味していた。だからいろいろと迷信的なアプローチも試してきたし、科学的な手段もあてはめてきた。それがずいぶん機能してきたのも事実である。しかし、科学が今日ほど発達してくると災害という概念はあらためて科学にも手の打ちようのない自然的な災厄として現象する。科学は万能ではないのだから、そういう災害のような現象が自然科学に解決のできない問題として残るというのは当然である。それは機械論的な自然科学では人びとの生きている自然観を捉えきれないからである。ところが災害は人が生きている自然でしか問われえない現象である。
 自然から人間を無視してしまうと、災害はカント的なたんなる自然現象として説明される。こうした科学観をとるのならば、そこには災害というものがなくなってしまっており、ないはずの災害に対処したいというのも土台無理な話である。だが地震学者の方々などの視界から地震に会う人間が見失われているようにはとてもおもえない。地震学という名称そのものに災害概念が含まれているのである。地震学の特殊性と困難と素晴らしさは、その他の自然科学とはこの点からして自然概念というものがそもそも異なっているところにあり、地震学的な自然概念は人間にとっての自然科学という点で自然にたいする適切なアプローチをたしかに探ってきていると私は思う。地震学は、自然とはなにかという問いまで含みこんだ学問であり、そこでは災害概念が課題にならないわけがない。こうした自然哲学的課題を取り込まざるをえない地震学の自然観はその他の自然科学にも応用されてよい。てんこ
 災害概念が見失われてしまうと、堤防で津波の害を避けようという発想が優位に立ってくるが、災害概念をちゃんと視野に含んでいれば高台に津波を避けようという避難ルート作りの学問にも科学はなる。


 政治的障害と公害にたいする自然哲学の役割については、余裕があればまた今度。
 

(無題)

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 6月22日(月)22時52分49秒
返信・引用
  『シェリング著作集1b自然哲学』を読み終えた。

 とにかく面白かったし、訳者にも気合が入っている方がいくにんか見うけられ、安心して読めた。もっと読まれてもいいとおもう。用語法などが独特なのかもしれないし(読めばわかるから)、「哲学史」の主流からそれてしまったのかもしれないが、アクチュアリティーがあるのでとくにとっつにくくもないと私は感じた。

 今日の科学の展開を知っているものとして、磁気や光の扱いをどう取り上げて読み進めていけばよいのかが、まだよくわからない。しかし、自然の別様の捉えかたを探る手がかりになりそうに感じる。
 少なくとももう一度は読み返したい。
 

Evolutionにかんして

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 6月14日(日)17時02分34秒
返信・引用
   松山壽一編訳『シェリング著作集1b自然哲学』より、「自然哲学体系の第一草案」を読了。

「したがって「経験的無限性」にとっての本来の概念は「無限に妨げられた活動【傾向】」という概念なのである。しかしながら、この活動が無限へと流れ込むのでなければ、そしてこの活動の描く線上の個々の点それぞれに活動の無限性全体が今も備わっているのでなければ、いかにして活動を無限に妨げることができようか。」


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 やはり面白い論考ではあるけれども、わたしの場合、どういう観点から読めばいいのか最後まで悩みどおしだった。

 下手に書くとオカルトチックになってしまいそうだが、生命のある自然を遺漏なく概念化していこうとすると、このようになるのではないかとも思う。それを、現在ふつうに使われている「生命」という言葉を自然に押しつけたものとして読まれてしまうと、現代ではカルト的な自然観に近づいてしまうかもしれない。というのも、私見では今日の科学主義のいう「生命」観は自然を見失ってしまっているからだ。
 しかしそもそも、生命なしの自然という概念が成り立つようには思えない。生きものがいない自然は、「自然科学」的時空間として思い描くことができるかもしれないが、それは自然を扱っているものだとは言い難く思う。

 この論考では「有機体」よりもむしろ「自然」そのものについて書かれている。そのため、いわゆる生きものよりも、「無制約者」やら「根源的質」やらといったことがなんやかんや論じたてられるのだが、筆者には非常におもしろかったし、わたしたち生命が生きていくうえでの自然をどう考えうるのか、じつに刺激的だった。
 とはいえ、今回もまたまたじつにしんどい読書経験だった。
 

シェリングの『世界霊について』所感

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 6月12日(金)11時26分48秒
返信・引用 編集済
   シェリングの『世界霊について』(抄訳)を読了。いろいろとわかってきたところ。
 自然哲学のなかでもとくに生命論が勉強になった。

 生命を捉えるためにはどういう視座をとればいいかを扱っている書物だとおもった。そのためには、生命とはなにであるのかとともに、なにでないのかが大切になってき、この両方を同時にまとめて考えたのがシェリングという先達である。
 むずかしいのは、生命であるものと生命でないものとの関係をどうとらえるかということになってくるが、シェリングの場合原理的には、「でないもの」と「であるもの」との「同一哲学」(筆者は不勉強)などがあるとおもう。というのも、私としては『世界霊について』の「積極原理」と「消極原理」の隠れた一体性を読み取ってそう感じた。

 この本でシェリングは、光、磁力、電力などと生命をいっしょに考えようとしている。現在の感覚ではむつかしいが、光合成によって酸素を生み出す植物がなければわれわれ動物も生きてはおれず(シェリングのテーマの一部でもある)、電力は動物の神経ではたらいている。磁力はというとかつては、「動物磁気」概念などを生み出し、生命との関わりを(なかば無批判的に)問われ、いまでも催眠術など、オカルト的に影響を与えている。
 しかし、光、磁力、電力などは、あくまで生物ではない。生命ではないものを考えなければ生物についてものをまともに考えつくすことはできないというのがシェリングの生命論だとおもう。
 かれの生命論は、いわゆる「生物」を超えていき、「生物」が生きていく自然環境をあたりまえのこととして含みこんでいく。そこには、環境や気象、風土なども含まれてくるだろう(それは、生命にとっては偶然性の原理としてはたらく)。ここには、「エーテル」や「フロギストン」といった前「科学」的な用語も持ち込まれているために、彼の哲学を即物的に読むようなひとにはどうしようもなくなりそうだが、かれが取り組んでいたテーマがなにかと考えつつ読めば、シェリング自然哲学は現在に生きてくるに違いないと私は思っている。

 とにかくあらゆる「生物」は生きている。生きている以上、「生命体」概念の外部と関わりあわねばならない。いわゆる自然環境がそうであるが、動物にとっては飢餓の現象にしたって、自分ではないなにか(それは肉でも野菜でも、塩でも水でもよい)を考えに含めねば、それを「生物」として考えにくい。さもなくば、「生物」は鉱物にちかい取扱い方をされることになろうし、それで「生物学」は十分成り立つということになろう。もちろん、自然哲学はそれでは成立しない。
 たとえば、農業の工業的な扱い方が現代的な「生物」観としてあげられる。これにたいして「不作」という現象は、作物を自然環境という生命現象の外部を含めなければ現象としてそもそも成り立ちえないだろう。逆にいえば、生命体を自然環境の偶然性から隔離して管理しようというのがいまの農業であり、畜産業も(鶏も牛)それをめざしている。

 しかし動物はもともと、自然環境を用意されるのではなく、自然環境のなかにあるものを使っていき、なんとなればより行きやすい環境に逃れていった。そうでなければ死に絶えててしまった。
 これがシェリングの自由論と自然哲学との接点であると考える。

 これがまためんどくさいが、自然環境に恵まれないという偶然がなければ、自由は生じない。すべてが自然にうまくいくのであれは生物がわざわざ自由になにかをする必要がないからである。
 のどがからからで水が飲みたいけど、たまたまみつけた泉には狼の群れがいる。このさい、水が飲みたいからといって川岸に歩み寄る狐はいない。狼が去るまで待つか、別の水飲み場に向かう。これが自由を行使する場面である(政治的アナロギーをふくめて私は書いている)。
 「のどがからからだ」「狼がいる」といった、そのままほっといても突っ立っていても、欲求が満たされない状況にみまわれるからこそ、「生物」は自由を使う

 哲学的な議論になるが、自由が成立する状況は、このような、偶然的「(シェリングのいう)阻害」がなければ考えることができない。このような阻害用件は、「たまたま狼がいる」、や「のどがからからだ」といったその個体にはどうしようもない条件をもとに成立する。
 シェリング的な自由論では、人間を含めた生きものはなにかを自由にしていくものではなく、このような生命体にはどうにもしようのない条件が自由な生物を成り立たせるのである。
 こうした「偶然」的阻害がなければありえないといういみで、こうした阻害要因は生物の自由にとって「必然」的に必要である。
 今日シェリングを読んでいて、かれの自由論は、人間的自由にとどまらず、あらゆる生物、生命体の生きている環境から論じられているように感じた。

―――――――――

 NHKさんの百分の名著「オイディプス王」第二回が期待しすぎていたせいか、面白くなかった。
 「オイディプス王」を見たかったのに「オイディプス」じゃなかった。
 島田さんももっと頑張れるはずだとおもった。
 NHKさんももっとスタジオに本を並べてもよかったんじゃないの!
 

 

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 6月 7日(日)01時49分58秒
返信・引用
   レミイの鬼ごっこがしんどかった。上手なひとのいろんなパターンをみて勉強させてもらったが、よくわからなかった。アイテムの組み合わせをすべてためしてもとうてい無理そうだったところに、小槌二回の動画に行きついた。これができるとは自力では思いつけなかった。

 れみぃれみぃれみぃ⌒
 

レミイがさいごに残った。

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 6月 7日(日)01時34分29秒
返信・引用
  きゅうけつ鬼ごっこで1555回死んだ。レミイじゃないとあきらめていた。

 結局上手なひとのリプレイ動画を見させてもらい、ぼっこーんを二回できることに気づいた。タイミングがシビアで、時間もかかったが、なんとかできた。
 弾幕パラノイアを全面クリアできた。うれしい。
 

(無題)

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 6月 5日(金)08時50分49秒
返信・引用
  くびあげて ひかれるものも ひとつあり
ひかりひかれて たどるほのけき

ひのうまれ うごくいこくの かぜのなか
やみはいやみはい やいんやすすめ

よをながめ きくはせかいの もののおと
みみがたちまつ こえのやみそら

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 さんざん考えたけれども、シェリングの光、重力、引力、斥力の関係がまだよくわからない。この点は、神学的議論の伝統や、西洋哲学の自由論と切り離せないように感じられたので、どうもひかかって先に読み進められなかった。
 

今日もシェリング

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 6月 2日(火)04時59分7秒
返信・引用
   松山壽一編訳『シェリング著作集1b自然哲学』より、「自然哲学に関する考案」を読了。


「しかし有限者が存在しなければ、私の内に無限者も存在できないであろうということなら、私にも分かる。というのも、私の内には、私の助力を待つまでもなく、観念と実在、絶対的活動と絶対的受動の、かの必然的合一が(これをスピノザは私の外部の無限実体に置いたのだが)端から現存し、この内にこそ自我の本性があるからである。」

「諸表象がわれわれの内部で相互に継起するというのは、われわれが有限であることに由来する当然の帰結である。しかし、この系列に終わりがないということは、有限性と無限性がその本性の内に合一されている存在者からこの系列が発していることの証左である。」

「この全体の一部としてでなければ、どの個別の部分も生じえなかったし、この全体そのものを支えているのは諸部分の「相互作用」にほかならない。有機体以外の場合どんな客体においても、諸部分は任意に存在し私が分割しさえすれば現存するのだが、有機体の場合にのみ、諸部分は実在的である。それらは私が関与しなくともそこにある。というのも、それらの部分と全体との間には客観的関係があるからである。それゆえ、あらゆる有機的組織の根底には、ある概念が横たわっている。というのも、全体が部分と、部分が全体と必然的に関係するところには概念があるからである。しかしこの概念は有機的組織そのものに内在し、それを有機的組織から決して分離できない。有機的組織は自分で自分を有機的に組織する。」

「諸君が自然物を現に諸君の外部にあるもの、それゆえなんらかの創造者の作品と見なすや否や、自然物そのものにはいかなる合目的性も内在しえないことになるからである。」

「つまり、無限者のこうした諸様態、すなわち有限物からなる体系全体が諸君の表象の内部へと到来したのはどうしてかということであり、あるいは無限者のなかでは存在論的でしかありえない諸物の統一が諸君の知性のなかで目的論的となったのはどうしてかということである。」


「ところが、私が私を自然から切り離すや否や私に残るのは一つの死せる客体でしかなく、私の外部で生命が可能か、私には捉えられなくなる。」

――私のもの、あなたのものでない生命は、私にとって、あなたにとって、無意味な言葉になってしまう。生命を私やあなたの外部にあるものとみなすと、わたしたちの方もまた理の当然として、生命の外部にあるもの、生命のないものになってしまう。それは、死せるなにものかである。現に科学主義的自然観は、このような概念的混乱に陥っている。
 自然を哲学的に「経験」していくことができれば、この混乱から抜け出せるに違いないが、それがむずかしい。
 

(無題)

 投稿者:かみた  投稿日:2015年 6月 1日(月)03時16分35秒
返信・引用 編集済
   ひさびさにシェリングの自然哲学が15ページほど読めた。
 きわめて重いことを書いている。5p/hの読書ペースはあまりない。(例外は古典古代とハイデガーくらい。)
 それにしてもじつにおもしろく、当時の科学の背景をふまえてたんに彼の思考を追うよりも、その時代から今日にいたる自然科学の状況を考えて読むべき。


 現代の自然観は史上もっとも貧しいものになっている。それは科学のせいではけしてなく、むしろ哲学の科学との距離感から生み出されてしまっている。
 たとえば、「生命」の哲学的概念は学者連にとっても「あたりまえのもの」としては理解できないほどの混乱におちいっている。だからこそ、「生命」という「あたりまえのはずのもの」にさえ、定義が欲されるほどである。もちろん、「自然」という概念そのものも、同様の状況にある。

 それはさらに、われわれの世界観の貧しさをもたらすことになる。世界から自然がゆらいでくると、世界の見方もぼやけ、また、生命の概念が薄らいでくると、われわれの世界との関わりが貧しくなってしまうのが当然である。

 だからこそ、学問するものにはみな、自然経験を豊富にもつ必要がある。もちろん、天候、四季、動植物の観察経験をふくめ、自然観の読書経験もあり、それには、自然「学」(Naturwissenschaft)だけではなく、多分野の本を読み漁るのがよい。自然観を読み取るような読書には、読みの積み重ねがいくぶん必要になってくる。それはしかたがない。

 シェリングの自然観を読み取り、読みこむためには、しんどいが、このような自然経験が前提として要求される。さもなくば、彼の哲学を学びえない。
 それにしても、彼自身がしんどい哲学者である。ただ、今日ひとが、こんなに夢中になって読まなければならないはずとおもわれる本は、ハイデガーとアンダース以降である。

 自然観を小説はもとより、哲学をも含めて拡げていかなければ、ひとびとは、現代社会を支配している科学観にがんじがらめとなってしまい、ものごとを考えるときに非常な窮屈を感じることになる。今日の通俗的な「科学哲学」にとくにそれが感じられる。彼らもしんどくはないのだろうか、あるいは、なにも感じず自然を語れるものなのだろうか。


 ことは学者にかぎらない。ひとびとがみなもつ世界観も自然観と切っては切り離すことができず、自然観は科学観にからめとられているから、世界観ということからは、ふつうのひとびとだってみんな、常識(あるいはドグマ)としての科学(Wissennschaft)観は自然を多面的に経験し、学ばなければ、彼らの生きていく世界そのものが貧しくなり、あやふやになってしまう。

 たとえば、外出時に傘を持っていくかどうかをなにによって判断するかという例を挙げると、いまではまず、天気予報がある。テレビがあり、ラジオもあり、それにネットや携帯でも予報はみれる。しかし、それ以前にできることが、ごくふつうに空模様を眺めるということである。
 みなしていることだとは思うが、参考にする上での重要性のちがいと、判断の基準とするために意識して空模様を予報より重視するひとはどのくらいおられるのだろうか。ごくごくなにげない散歩のような行動のばあいでも、傘をもっていくかどうかという自然にたいする振る舞いが、予報技術の科学的進歩とともに変わっている。その変化の度合いに気づくためにはやはり、自然にたいする哲学的アプローチがいる。

 さらに、政治的な課題にとっても、自然観をつうじ、世界観がぼやけてしまうと、選択肢もぼやけてくる(近代日本における強固な例外がヘーゲリズムをふまえたマルクス(丸山先生によれば――筆者はそこまでマルクスには詳しくない)と、かれと対峙することになった今日までの経済学全般)。政治家ではなく、ふつうのひとにとってこそ、世界観の薄らぎは、政治的ふるまいをとるときにとって重要となってくる。というのも、世界観がぼやけているということは、世界を見通す能力を奪われているということであり、このちからがなければ、政治的判断をくだすのがしんどく、また、おっくうになる。

 そのため、生活感覚の水準での政治的変化というものが現在ではほとんど想像しにくいものとなっている。科学技術の進展がもたらしそうな生活感覚の変化を予想してみてほしい。それとくらべると、日常的な変化の期待の水準でも政治的行為の有効性はゆらいでいる。それは、くりかえしになるが、世界、および自然観のゆらぎとぼやけによるだろう。


 したがって、今日こそ喫緊に、<自然>を<哲学>する必要がある。それをしているかたはおそらく一人もおられない。ふつうのひとが、ふつうに、自然のある世界のなかで、ひとびととうまく生きていく(eu zen)のにも、自然哲学というのはかなり哲学的に高度だが、やりがいがある。しかもそれが古来哲学が課題としてきたテーマである。

 そのためにシェリングは、これ以上ないほどの仕事を残してくれている。訳もまたよい。
 彼の著述を読み込むのはかなりむずかしい作業ではあるが、読めば読んだぶんだけ、現在でも科学技術の展開のほうがあとから、読み手の読書経験をついてくる。
 だから、かなり気合をいれて取りかかって欲しいが、彼の著作をぜひ読んでみてほしい。なんといっても、シェリングはおもしろいし、ためになる。
 

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