考古文化研究会〜掲示板〜
★☆★お気軽に何なりとご質問ください。★☆★ ただし誹謗中傷、営利目的の書き込み、一方的な自説の展開と思われる文章は削除します。
Reload
投稿者
メール
題名
内容
<IMG><OBJECT>タグが利用可能です。
(詳細)
ファイル1
ファイル2
ファイル3
アップロード可能な形式(各1MB以内):
画像(gif,png,jpg,bmp) 音楽(mmf,mld) 動画(amc,3gp,3g2)
URL
[
ケータイで使う
] [
BBSティッカー
] [
書込み通知
] [
teacup.コミュニティ
]
投稿募集! スレッド一覧
スレッド作成
他のスレッドを探す
[PR]
バイト日雇い
味噌
奈良の求人・転職
SSL
物流コスト
[
teacup.
] [
無料掲示板
] [
プレミアム掲示板
] [
teacup.コミュニティ
] [
ブログ
] [
チャット
]
【From teacup.】この掲示板は投稿が一定期間無いため、各記事中に広告を表示しています。
全135件の内、新着の記事から10件ずつ表示します。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
|
《前のページ
|
次のページ》
Re:石山寺
投稿者:
西 博孝
投稿日:2006年 8月10日(木)12時11分19秒
返信・引用
五味川様
昨年の第2回研修会にわざわざ東京からご参加頂き、ありがとうございました。
当日は生憎の雨で、全体の行程が遅れ、最後の石山寺には残念ながら入山時間に
間に合いませんでした。決して五味川様のせいではございませんので、気になさらないで
下さい。
さて、お問い合わせの件ですが、肥後の馬門の石工が石山寺の石を採石したということでは
ありません。馬門の石工は、あくまでも阿蘇ピンク石石棺と鴨稲荷山古墳の石棺の仕上げを
したということです。
見学されました甲山古墳のすぐ近くに、宮山古墳群というのがありまして、その中の1基に
花崗岩でできた石棺がありました。野洲から大津にかけての地域は、花崗岩製の石棺を納めるという特徴的な地域です。花崗岩はかなり硬く、石工技術としてもかなり高度で、この時代においては、この地域にしか見ることが出来ません。
継体が畿内に入ってきて以降、それまでバラバラだった大和盆地内の横穴式石室が企画化され、統一されていきます。石室の前壁と奥壁が内傾するというもので、これは近江によく見られるものです。
このことから近江の石工集団が大和に入ってきていたのではないか、と考えられます。
飛鳥の石像物などは、近江の技術なくしてはできないと考えられています。
同じく飛鳥の川原寺の中金堂の礎石は、これまで「白瑪瑙」とされていましたが、奥田
尚先生の詳細な分析によって、石山寺の結晶質石灰岩であることが明らかになりました。
石山寺は、その名の通り石の山で、採石地であったと思います。山全体が採石地ですが、
特に御影堂のあるところは完全に掘り窪められ、採石した跡と思います。その場所に
御影堂が建てられたようです。
大和に来ていた近江の石工集団が川原寺中金堂の礎石を作るにあたって、郷里の綺麗な
石をわざわざ掘りだして、使ったのではないか、と私は考えています。
その遠因は、継体が畿内に侵出してきたことにあるのではないか、ということです。
石山寺
投稿者:
ごみちゃん
投稿日:2006年 8月 9日(水)17時31分15秒
返信・引用
昨年の第2回研修旅行でバスに乗り遅れそうになった五味川と申します。皆様方には大変ご迷惑をお掛けしました。それが原因で最後の石山寺には行けなかったのが残念です。自分でいっていれば世話無いですが。
時々その時のことを思い出します。さて、甲山古墳の説明の時だったと思いますが、阿蘇ピンクを使用した石棺加工の職人が、宇土から船で来て畿内の石棺加工に足跡を残したというお話を伺ったと思います。
その話しの中で、石山寺にある石にも彼等が加工を施していたとのお話を伺ったと記憶していますが、境内のどの当たりの所にあるのでしょうか。教えていただければ幸いです。私は昔から物忘れが上手ですので、変な質問をしまして恐縮です。
今年の秋は都合で参加できませんが、来年の春には是非参加させていただきます。
超アマチュアのごみちゃんより西先生へ。
『考古文化』を製本して頂きました
投稿者:
中岡 敬善
投稿日:2006年 8月 6日(日)22時57分50秒
返信・引用
私どもの会と平群とは縁があり、第1回の古墳めぐりが平群の古墳でした。会報『考古文化』でも、何度か平群周辺の遺跡を取り上げたこともあり、このたびバックナンバーを製本頂き、平群町立図書館(あすのす平群、平群町福貴1037-2・TEL0745-46-1120)に配架されました。幻の創刊号から44号まで、3分冊で製本されており、3センチの厚みがあります。ぜひ、お立ち寄りの際は手にとっていただければ幸いです。なお、あすのす平群では、9月29日まで、発掘調査成果展「椿井西宮遺跡の調査」が開催中で、遺物が展示されていますのであわせてご見学下さい。
新刊情報『石川流域の後・終末期群集墳とその周辺』
投稿者:
中岡 敬善
投稿日:2006年 7月12日(水)01時13分17秒
返信・引用
太子町立竹内街道歴史資料館(TEL:0721-98-3266)で本年3月開催されました『石川流域の後・終末期群集墳とその周辺』の図録が刊行されました。池田貴則・鍋島隆宏両氏の手になる同書では、石川中・下流域の主要な後・終末期群集墳が、出土遺物と遺構の豊富なカラー図版で紹介されています。当該地域の墓制をつかめ、最新情報が得られるとともに、詳細な地図が掲載されていますのでガイドブックとしても有用です。なお、飛鳥千塚古墳群の項で羽曳野市の古墳群の1基として紹介されています誉田山15号墳は羽曳野市ではなく柏原市側の誉田山古墳群に所在していた古墳です。誉田山15号墳については、拙稿「二上山麓の終末期古墳出土のセンについて」『考古文化』35号(2004年)で紹介しておりますので、興味をお持ちの方は参照頂ければ幸いです。
考古文化第46号
投稿者:
西 博孝
投稿日:2006年 6月22日(木)22時02分52秒
返信・引用
私どもの会報「考古文化」第46号が出ました。
吉野修「庭鳥塚古墳の現地説明会の感想」
中岡敬善「野神古墳を考える−阿蘇ピンク石製石棺と馬具による築造時期の検討−」
拙稿「継体紀と考古学 1」
という内容です。
吉野論文は、昨年大阪府羽曳野市で発掘された庭鳥塚古墳の現地説明会をもとに、
三角縁神獣鏡などの副葬品、特に筒形銅器の分布と時期などの詳細な検討から、
同古墳の築造時期と被葬者像を絞っていくとい労作です。筒形銅器の時期やそれを
副葬する古墳の集成がなされているのは、今後も使える貴重な資料です。
中岡論文は、阿蘇ピンク石石棺と縄掛突起をもつ天井石がある奈良市京終の野神古墳
に関する考察です。阿蘇ピンク石石棺の変遷を基礎に、また縄掛突起の天井石をもつ
古墳の集成を行っています。さらに同古墳出土とされる馬具についても、詳細な検討を
行い、同古墳の築造時期をかなり絞り込んでいます。これまでの定説を踏まえ、さらに
踏み込んだ考察で、力作です。
拙稿は、昨年9月大阪・本年4月東京で行いました講演会の内容を成文化した連載ものです。
継体紀の分析と考古資料を対比して、当時の状況を克明に復元しようというもので、これま
での文献史学や考古学の定説とは、かなり違うものです。どちらの説が妥当かは、読んで頂い
た人に判断してほいしいと思います。
いずれの論文も非常に示唆的で、ご興味のある方には読んで頂きたいと思います。
私ども考古文化研究会のHPにございます「考古文化の会」会員になって頂きますと、会報購読
ができますので、よろしくお願い致します。
政略結婚
投稿者:
なむ
投稿日:2006年 4月30日(日)00時08分7秒
返信・引用
>やはり大和に入らなければ、名実ともに大王として認められ
>なかったと思います。それが手白香皇女との婚姻関係だと思います。
そうですね、やはりその解釈が最も妥当なのでしょう。どうも私は発想が
突飛なのか「そういう考え方もあったか」的なものに走りがち。周囲の苦
笑を買うことが多いのですが、呆れずお付き合いくださいませ^^;
>つまり盆地内は、閉塞状態に陥ったと思います。
>それによって、大和内の継体反対勢力が弱まった末に、継体が大和入りしたと考えられます。
戦略家だったのですね。一歩一歩地固めをした月日が20年だったのか、それでもヤマト勢力が諦めず抗った意地の20年だったのか。
>別の角度から言えば、継体が淀川水系を次々と掌握して、大和を圧迫した結果、大和側の中でそれに呼応したのが、大伴氏・物部氏・巨勢氏であったと読み取ることができます。
「大伴連が継体を推し、物部・巨勢が迎えに行った」のが先にあるのではなく、継体が大和を圧迫した結果の「呼応」・・・なるほど。大伴・物部・巨勢、政治家ですね。
>ただ継体が拠点にしたところでは、かなり凄いことをやったのではないか、と思っています。
「かなり凄いこと」、気になります。
>この点については、成文化したときにお読み頂ければ、と考えています。
会報に掲載されるのでしょうか?
Re:ヤマトの地は魅力があったか
投稿者:
西 博孝
投稿日:2006年 4月27日(木)21時18分47秒
返信・引用
少なくとも大和は、古墳時代の中心地域であったと思います。そしてそこに入らなければ、
例え権力があったとしても、やはり大和に入らなければ、名実ともに大王として認められ
なかったと思います。それが手白香皇女との婚姻関係だと思います。
実際的には、すぐに継体は大和に入ろうとも、継体に反対する勢力がいて入れずに、一種の
兵糧責め、囲い込みをするために樟葉という要衝の地に拠点を構えた、と私は考えています。
淀川と古山陰道を押さえることで、大和の北側は完全に遮断できますし、尾張氏との関係で、
大和の東側の伊勢への交通も遮断できます。
大和から外に出るには、一つは大和川を下るルートですが、当時の大和川は現在の八尾市の
ところから北上し、いわゆる河内湖、河内潟に流れていました。ここは河内馬飼首荒籠の本
拠地と考えられ、ここも押さえられていました。
残るはもう一つのルートで、大和盆地の西南部の巨勢路を通って、紀ノ川に出るルートです。
ここには継体側の巨勢男人がいて、ここを管理していますので、ここも無理です。つまり盆地
内は、閉塞状態に陥ったと思います。
それによって、大和内の継体反対勢力が弱まった末に、継体が大和入りしたと考えられます。
別の角度から言えば、継体が淀川水系を次々と掌握して、大和を圧迫した結果、大和側の中で
それに呼応したのが、大伴氏・物部氏・巨勢氏であったと読み取ることができます。
継体と大和側との戦乱があったかどうかは、今のところわかりません。小競り合いはあったと
思いますが、それが考古学的にわかるかどうかは、不明です。
ただ継体が拠点にしたところでは、かなり凄いことをやったのではないか、と思っています。
この点については、成文化したときにお読み頂ければ、と考えています。
ヤマトの地は魅力があったか
投稿者:
なむ
投稿日:2006年 4月27日(木)00時34分8秒
返信・引用
>まず武烈に跡継ぎがないとしても、大和内にはそれまでの親族がいるわけで、わざ
>わざ丹波や越前まで、それも5世の孫というような本当かどうかすら怪しい人を探
>す必要などないのでは、ないかということです。
確かに、5世孫に行き着く以前にいったい何人の親族が候補になるのか、と考えて
しまいます。
>このような大和内の混乱を前にして、まずは倭彦王を代表とする丹波の勢力が南下
>して、大和に触手を伸ばそうとしていた時に先手を打って、大和側からの攻勢があ
>って、それが倭彦王の事件の記事だと思います。
なるほど。倭彦王の事件はいったい何のために書かれたのか不思議だったのですが、
「大和に触手を伸ばそうとしていた」矢先に叩かれた、と考えれば腑に落ちます。
ただ日本書紀を書いた、継体の皇統を継ぐ政権の文官が「継体天皇は二番手」と敢
えて書いたのが不思議。威信に傷がつくような気がするのですが・・・「二番手」
ということより「倭彦王は逃げた」という記録を残すことの方が大事だったのかも
しれませんね。
>それを別の角度から見ますと、大和盆地内では武烈の時代になって、さまざまな勢
>力が拮抗し、もはや収拾がつかない状態になっていたのではないか、と考えられる
>ことです。
もうにっちもさっちもいかない、といった感じでしょうか。そこに越から攻め入りそ
うな気配でもあれば万事休すだったのかもしれませんね。
>もし紀の記事を額面通りに取って、大和側から請われていたなら、なぜすんなり継
>体は大和に入らないのか、という当たり前のことがわからなくなります。
そこなのですが・・・おっしゃるとおり、樟葉・綴喜・乙訓デルタは交通の要衝。
水運にしても陸運にしても、国内外との行き来を考えるとヤマトの地よりはるかに
便利だと思うのです。韓半島や大陸においてきな臭い空気が漂い、大陸に渡るに
は必ず経由しなければならない筑紫の磐井も反抗的。こんな緊迫した情勢にあって
不便なヤマトの地に引っ込むより、樟葉を中心とするデルタにいた方が現・大阪湾
に出るにも日本海に出るにもはるかに便利。むしろヤマトに入る必要があったのか
と疑問に思ったりもします。磐余玉穂宮、本当に入ったでしょうか。
西さまはヤマト勢力と継体勢力は実際に一戦交えた、とお考えでしょうか?
Re:物部麁鹿火らの「本意」
投稿者:
西 博孝
投稿日:2006年 4月24日(月)12時46分6秒
返信・引用
物部氏や巨勢氏が継体を三国に迎えに行くという件には、実は伏線がございます。
それはその前にある大伴金村の提案です。
武烈天皇が亡くなって、跡継ぎがないということから、仲哀天皇の5世の孫である
倭彦王を現在の京都府亀岡市あたりに迎えにいきますが、どういう訳か軍隊で武装
して、御輿を持っていきます。それはあたかも謀略のようなものだと紀本文には書
かれています。
その様子を見て、倭彦王は山中に逃亡し、行方知らずになります。
このような件があったので、継体は迎えに着た大和側の本意を知るために、そのよ
うな行動を取ったという正当性を主張している、と考えることができます。
これらの状況を考えてみますと、いくつかの問題点が出てきます。
まず武烈に跡継ぎがないとしても、大和内にはそれまでの親族がいるわけで、わざ
わざ丹波や越前まで、それも5世の孫というような本当かどうかすら怪しい人を探
す必要などないのでは、ないかということです。
それを別の角度から見ますと、大和盆地内では武烈の時代になって、さまざまな勢
力が拮抗し、もはや収拾がつかない状態になっていたのではないか、と考えられる
ことです。
実は、この大和内の混乱は、雄略の時代に始まっていると私は考えています。それ
は考古学の面からも言えることで、「葛城南部の古墳群が語るもの」(『考古文化
第27号』に書きました。
このような大和内の混乱を前にして、まずは倭彦王を代表とする丹波の勢力が南下
して、大和に触手を伸ばそうとしていた時に先手を打って、大和側からの攻勢があ
って、それが倭彦王の事件の記事だと思います。
同じく、継体も侵出しようと機をうかがっていて、畿内の情報を提供したのが、河
内馬飼首荒籠と思われます。
もし紀の記事を額面通りに取って、大和側から請われていたなら、なぜすんなり継
体は大和に入らないのか、という当たり前のことがわからなくなります。
継体がまず落ち着いた場所は、樟葉であり、この地は古山陰道に接し、同時に宇治川
・木津川・桂川が合流する場所にあたり、水運のターミナル拠点です。
古山陰道は、そこから道を北にとれば、丹波となり、南に取れば大和に入るという重要
な土地で、そこに拠点を置くというのは、極めて戦略的だと思います。
物部麁鹿火らの「本意」
投稿者:
なむ
投稿日:2006年 4月23日(日)01時26分15秒
返信・引用
西様、丁寧な解説をいただきありがとうございます!『日本書紀の謎を解く』、面白そうなので読んでみようと思います。遅読なのでちょっと時間がかかるかと思いますが、読み終えましたら感想など書けたらいいなと思います。
>物部麁鹿火や巨勢男人が越前の三国に継体を迎えに行きますが、継体は自分はそ
>のような器量ではないと即位を断ります。
>ところが他方で河内にいる河内馬飼首荒籠に密かに連絡をして、畿内の動静を探
>らせ、その状況を知ると早速三国を発って、樟葉にやって来ます。
このことがなぜ「継体が侵出してきた傍証」になるのかよくわからないのです・・・
攻め込まずとも、物部麤鹿火らが三国に迎えに来た段階で即位を受ければ済むこと
のように思えるのですが。もしくは大連らの懇願を疑うに足る情報が河内馬飼首荒
籠から寄せられ、そら見たことかと実力行使の皇位簒奪に出た、ということでしょ
うか。となると「大連等所以奉迎本意」の「本意」は口とは裏腹だった?
しかしヤマトと一戦交えるとなると、大国・越とはいえかなりの準備と覚悟が要り
そうですね。物部麤鹿火らが来る前から、男大迹王は皇位を狙っていたのでしょう
か。
以上は、新着順21番目から30番目までの記事です。
1
2
3
4
5
6
7
8
9
10
|
《前のページ
|
次のページ》
/14
新着順
投稿順